| 大垣城 (岐阜県大垣市郭町) | ||
| 天守:外観復元天守 続日本100名城 | ||
| 戦国期を中心とした主な歴史 1500年 竹腰氏が揖斐川の東河岸の牛屋に本丸と二の丸のみの城を築いたとされる(諸説あり) その後、交通の要衝であったため、美濃斎藤氏と尾張織田氏との間で争奪戦の場となる。 1544年 織田信秀が、斎藤道三から奪う。 1549年 道三が再び信秀から奪い返す。 1559年 氏家直元が城主となり整備される。 1583年 池田恒興が城主となる。 1584年 恒興、小牧・長久手の戦いで討死。恒興の子・輝政が城主となる。 1585年 輝政、岐阜城に転封となり一柳直末が3万石で入る。 1586年 天正地震で全壊。 1590年 小田原征伐の功により、伊藤氏が城主となる。 1600年 関ヶ原の戦いで伊藤氏が西軍に属したため、西軍の拠点となるが、敗戦後に降伏。 その後、石川氏、久松松平氏、岡部氏が城主をつとめる。 1635年 戸田氏鉄が10万石で入城。以後、明治維新まで戸田家の居城となる。 (メモ) 1583年、賤ヶ岳の戦いで秀吉はこの城から大返し(美濃大返し)を行い勝利した。 大垣は「水の都」とも呼ばれ、水がきれい。水ようかんが美味しい。 松尾芭蕉「おくのほそ道」の終着点。そのため、観光客はこちら目当てが多い感じ。 |
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| 外観復元天守 | 東門(柳口門を移築したもの) | 戸田氏鉄像 |
![]() 六段壁① ![]() 六段壁② |
岩村城 (岐阜県恵那市岩村町) | |
| 天守:なし 日本100名城 日本三大山城 | ||
| 戦国期を中心とした主な歴史 1221年以降 鎌倉幕府の御家人・加藤景廉の長男・遠山景朝により築城されたという。 以後、戦国時代まで岩村遠山家が歴代城主をつとめる。 1555年 武田信玄による東美濃侵攻。遠山景前、武田家に臣従する。 1557年 景前死去。嫡男・景任が城主となる。 以後、景任は武田家に臣従しながら美濃斎藤家、尾張織田家とも関係をもつ。 1560年代 景任、織田信長の叔母・おつやの方を妻に迎える。 1571年 景任死去。妻・おつやの方が事実上城主となる。 1572年 武田家臣・秋山虎繁により落城。おつやの方が虎繁と再婚(西上作戦)。 1575年 織田信忠により落城。秋山虎繁、おつやの方、処刑される。 1582年 本能寺の変後、信濃より帰還した森長可により接収される。 1584年 小牧長久手の戦いで長可が討死。長可の弟・忠政が城主となる。 1599年 忠政、信濃松代に移封。田丸直昌が入城する。 1600年 関ヶ原の戦い。直昌、西軍に属し改易。松平家乗が入城する。 (メモ) 標高は高いところにあるが、城の入り口からメインの「六段壁」までは意外に近い。 岩村町としては信長の叔母・おつやの方を推しおんな城主の城としてアピールしている。 とにかく、石垣は立派。まさに「岐阜のマチュピチュ」。 |
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| 大手門跡 | 一の門跡 | 本丸裏門 |
![]() 模擬天守 ![]() 金華山 |
岐阜城(稲葉山城) (岐阜県岐阜市金華山天守閣) | |
| 天守:模擬天守 日本100名城 | ||
| 戦国期の主な歴史 1201年 二階堂行政が金華山に砦を築いたのが始まりとされる。 その後もしばらく二階堂氏の支配下にあったが廃城となる。 15世紀中期 美濃守護代・斎藤利永が砦を修復し居城とする。 1525年 長井長弘と長井新左衛門尉(道三の父)が斎藤氏より城を奪う。 1533年 新左衛門尉の死後、長井新九郎規秀(斎藤道三)が城主となる。 1539年 斎藤道三が山頂に築城を始める。名は稲葉山城。 1556年 長良川の戦い。道三、子・義龍に討たれる。 1561年 斎藤義龍、急死。子・龍興が城主となる。 1564年 竹中重治(半兵衛)による乗っ取り。 1567年 織田信長により落城。「稲葉山城」を「岐阜城」と改名。 1582年 本能寺の変。信長三男・信孝が城主となる。 1583年 織田信雄が城を包囲。信孝、降伏するが、のちに切腹。 1585年 池田輝政が城主となる。 1592年 輝政の転封により、織田秀信が城主となる。 1600年 関ヶ原の戦い。秀信、西軍につくが、東軍の攻撃を受けて降伏。 1601年 徳川家臣・奥平信昌が入城。加納城の築城により廃城。 (メモ) 織田信長によって、戦う城から、見せる、権威を示す城に改装された。 天気がよければ、信長が稲葉山城を攻略するために城を築いた小牧山が見える。 戦国期を語るうえで欠かせない事件が多数起きている。 難攻不落といわれながら、けっこう落城している。 いくつか登山道があるが、「馬の背口」は油断をすると遭難しそう。 なんだかんだいってロープウェイが一番便利。 |
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| 織田信長居館跡 | 信長が庭石として利用したチャート | 天守入口にある算木積み |
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| 信長期以降といわれる石垣 | 天守から見た長良川 | 天守から小牧山を見る |
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亀甲山立政寺 (岐阜県岐阜市西荘) |
| 室町時代初期、智通光居によって建立されたといわれる。 1565年、室町幕府13代将軍・足利義輝が三好三人衆らに殺害されると、義輝の弟・義昭は細川藤孝ら義輝の側近らに助けられて京都を脱出。そして強力な後ろ盾を得るため、各地を放浪した末、越前の朝倉義景のもとへ辿り着いた。 しかし、義昭を気持ちよく迎えてくれた義景にも上洛の意思はなく、それを見てとった義昭は越前で新たに加えた家臣・明智光秀を仲介人として藤孝を使者にたて、美濃を制圧して勢いに乗る織田信長に自分を奉じての上洛を要請した。 1568年、信長はこの要請を受け入れると、すぐに義昭をここ立政寺に迎え入れて上洛軍を起こし、その年のうちに上洛を果たして義昭を室町幕府15代将軍の座に据えることに成功した。 (メモ) 現在、立政寺の境内には当時のものは何もなく、義昭が入った正法軒跡に石碑が建つのみだが、信長、義昭、光秀、それぞれの人生の岐路となった場所として、かなり熱い。 民家に囲まれていて分かりにくいが、寺の正面には3~4台の参拝者用駐車場がある。 |
| 郡上八幡城 (岐阜県郡上市八幡町) | ||
| 天守:木造模擬天守 続日本100名城 | ||
| 戦国期の主な歴史 1559年 遠藤盛数が郡上郡一円に勢力を誇った東氏の赤谷山城を攻略するために築城する。 1562年 遠藤盛数、病没。子・慶隆が城主となる。 1583年 慶隆、織田信孝に属して羽柴秀吉と敵対する。 賤ヶ岳の戦い。慶隆、信孝派の最大勢力・柴田勝家が秀吉に敗れると秀吉に降伏する。 1588年 慶隆、信孝に属して秀吉に敵対したことを蒸し返されて転減封となり城を退去。 稲葉貞通が4万石で入城。 1600年 関ヶ原の戦い。慶隆、東軍につき、城主に返り咲く。 稲葉貞通は豊後国に転封加増。 (メモ) 遠藤盛数は、山内一豊の妻・千代の父親という説がある。 盂蘭盆会の徹夜踊りで知られる「郡上踊り」は遠藤慶隆が領民親睦のために奨励したともいわれる(諸説あり)。 岐阜県郡上市白鳥町は、「流しそうめん」発祥の地のひとつらしい。 |
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| 木像模擬天守 | 正門 | |